ハーブとエッセンシャルオイルのケミストリー 香りの世界を彩る構造式と立体化学
ハーブや精油に含まれる香りなどの成分の働きを理解するためには、それぞれの成分の化合物名と成分固有の化学構造とが結びつく必要があります。例えば、バラの香りの成分である“ゲラニオール”の分子の形、すなわち構造式に注目してみましょう。炭素(C)は生物の骨のように分子の形を形成していることが分かります。それを水素(H)がまとい、アクセントとして、酸素(O)が結合して、ゲラニオールが形作られます。本稿では構造式の書き方と立体化学をいっしょに勉強しましょう。構造式は植物と会話するときの言語でもあり、植物からの贈り物だと思います。できれば色鉛筆でスケッチするように描いてください。


1.構造式の書き方
構造式は原子の並び方と原子どうしの結合状態を表したものです。そして構造式にはいろいろな表現方法があります。構造式の書き方は、主として丁寧な構造式、簡略した構造式、そして折れ線による構造式があり、その3つについて違いを理解しましょう。
(1)丁寧な構造式:すべての分子を立体的に表すのには無理があります。そこで、より簡単な表現法が使われています。例として、炭素10個からなる分子式C10H18Oのゲラニオールの構造式を見てみましょう。この構造式は分子を構成するすべての原子の元素記号が示されています。
(2)簡略化した構造式:丁寧な構造式では、原子どうしのつながりはよくわかりますが、複雑な分子になると原子が重なり、書くのも見るのも辛くなります。そこで簡略化した書き方では、1個の炭素とそれについた水素をまとめてCH3、CH2、そしてOHなどとして表します。

下:ゲラニオール(簡略化した構造式)
(3)折れ線による構造式:さらに簡略化した構造式であり、有機化学において最も用いられている書き方です。とてもシンプルな表記ですが、構造式から得られる情報量は減っていません。しかし、折れ線による構造式の書き方には次のようなルールがあります。
①直線のはじめと終わり、および屈曲部には炭素(C)が存在する。末端の炭素(C)を表記する方法もよく使われる。なお、構造が複雑になるときは、末端炭素は省略される場合が多い。
②各炭素(C)には、結合手(4本)を満足するだけの水素(H)が結合している。
③二重結合は二重線、三重結合は三重線で表す。
④炭素(C)、水素(H)以外の元素は、元素記号で表す。

2.立体化学を通して見える分子の形
ハーブや精油の機能性成分である天然有機化合物は、紙面上では二次元で表記されますが、実際は三次元構造を有しており、分子構造を三次元で取り扱う化学を「立体化学」といいます。簡単にいえば、化合物の化学組成が同じでも、分子内の原子や原子団の並び順は同じなのに、空間的な配置の違いによって起こる異性現象です。そして、それぞれの互いの分子どうしを立体異性体と呼びます。立体異性体には、主にシス・トランス異性体(幾何異性体)と鏡像異性体(エナンチオマー)の2種類が存在します。
(1)シス・トランス異性体(幾何異性体):二重結合や環構造を持つと炭素-炭素結合の自由結合が規制されるため、二重結合や環内の2つの炭素に置換基が結合した場合、シス・トランス異性体を生じることがあります。シス・トランス異性体は、同じ基が同じ方向を向いているものをシス(cis)体、反対方向を向いているものをトランス(trans)体といいます。図1に、ケイヒ(桂皮)の主成分であるケイヒアルデヒド(シンナムアルデヒド)のシス・トランス異性体であるtrans-ケイヒアルデヒドとcis-ケイヒアルデヒドを示しました。


(2)E,Z表記法:シス・トランス異性体では、4つの異なる置換基が結合している場合、シス・トランス異性を表記することができない場合があります。そのような時に、シス・トランス異性表記に代わってIUPACの二重結合のEZ表記で区別します。まず、カーン・インゴールド・プレローグ(Cahn–Ingold–Prelog)順位則に従って置換基の優先順位を決め、そしてE(ドイツ語のentgegen、反対の意味)あるいはZ(ドイツ語のzuzammen、一緒の意味)を決定します。
具体的な手順として、以下に優先順位ならびにEとZの決定法を示します。
1)置換基の優先順位の決定(Cahn–Ingold–Prelog順位則)
❶二重結合に結合している4つの原子の原子番号が大きいものを優先する。
❷①の原子で決定できない場合は、その隣の原子の原子番号が大きいものを優先する。
❸②でも決まらなかった場合は、原子番号の大きい原子の数が多いものを優先する。
❹③でも決まらない場合には、3つ目、4つ目と違いがでるまで、②③の操作を繰り返す。
2)EとZの決定
❶それぞれの炭素において結合した置換基の優先順位の高い方を選ぶ。
❷優先順位の高い置換基が同じ側にあればZ、反対側にあればEとする。
バラの香りの成分“ゲラニオール(トランス体)”とレモングラスの香りの成分“ネロール(シス体)”はシス・トランス異性体の関係にあります。ゲラニオールの骨格の2と3位との二重結合には4つの異なる原子や置換基が結合しています。2位の炭素にはHとCH2OHが結合しており、優先順位は規則①からCH2OHの方が高い。しかし3位の炭素には同じ炭素が結合しており、規則①では優先順位が決まりません。そこで、次に規則②で、CH3は炭素(C)に水素(H)、CH2CH2は炭素(C)に炭素(C)が結合しているので、CH2CH2がCH3よりも優先されます。それぞれ優先される原子あるいは置換基が反対側に結合しているゲラニオールはE体、それに対してネロールは同じ側に結合しているのでZ体と表記されます(図2)。


3.不斉炭素…鏡の世界の主役
4つの異なる原子や置換基が結合した炭素は不斉炭素と呼ばれ、不斉炭素を持つ化合物は光学活性を持っており旋光性を示します。不斉(ふせい)って聞き慣れない言葉ですが、「不整」あるいは「不揃い」の意味です。炭素原子には4本の結合手があり、それらは互いに109.5度の角度をなして、原子核から突き出ています。その結合手を埋めるように4個の水素原子が結合したものが、もっとも小さい有機化合物の分子のメタンCH4です。メタンの4つの水素原子を線で結ぶと正四面体となります。このメタンは立体的な構造を持つ化合物です。したがって、三次元構造を紙面で表現するためには、工夫が必要となります。そこで、結合を表すのに3種類の線を用います。すなわち実線、破線、そして太線です。実線の結合は、紙面上にあると考えてください。破線は紙面の下方へ遠ざかる結合、そして太線は紙面から上方に飛び出る結合です。ここでは、乳酸を例にして説明します。乳酸の分子AとBはいずれも炭素に水素(H)、メチル基(-CH3)、ヒドロキシ基(-OH)、カルボキシル基(-COOH)が結合しています(図3)。このAとBをどのように回転させても、互いに重ね合わせることはできません。乳酸の分子AとBは互いに異なる化合物です。
4.鏡の国の鏡像異性体
乳酸の分子Aを鏡に映すと分子Bになります。同様に分子Bを鏡に映すと分子Aになります。すなわち分子AとBの関係は左手と右手の関係と同じで、互いに鏡像の関係にあります。このような関係にあるとき、分子AとBを互いに鏡像異性体(エナンチオマー)といいます(図4)。


そして鏡に映した鏡像が元の形と重ね合せることができない性質を「キラリティー(chirality)」と呼びます。キラリティーのあることをキラル(chiral)といいます。なお、キラルの語源はギリシア語の「手」を意味する「ケイル(cheir)」に由来します。そして、鏡像異性体の片方だけからなる化合物は特殊な光(偏光)を回転させる性質を持っています。この回転させる性質を光学活性と呼びます。その化合物や溶液に光を当てると、出てきた光が左か右に回転して出てきます。光の出てくる方向に向かって見ると、右回りに回転している場合を「右旋性」といい正(+)で表したり、dextrorotary(dextroはラテン語の右の意味)の頭文字をとってdで表したりします。一方、左旋性の化合物は負(−)あるいは、levorotary(levoはラテン語の左の意味)の頭文字をとってlで表されます。同じリモネンでありながら、両鏡像異性体(エナンチオマー)のうち、柑橘系の香りがするのは(+)−リモネン(d−リモネン)であり、一方、(−)−リモネン(l−リモネン)はむしろ清涼感が伴う森林の香りを想起させます(図5)。
また、ラベンダーの香りの成分として知られるリナロールに関しては、含まれる植物によって鏡像異性体が異なり、ラベンダー、ベルガモット、クラリセージの香りは(−)−リナロールで、もう一方の鏡像異性体である(+)−リナロールはジャスミンやコリアンダーの香りの成分です(図6)。


5.まとめ
今回は構造式と立体化学の関係について概説しました。鏡の国を理解するのは、難しいですが、自然界では鏡像異性体の作り分けがスムーズに行われています。色鉛筆と紙を使って構造式を書く練習をしてみましょう。次回は、ハーブと精油に特徴的な化学成分の生合成経路について解説します。
初出:特定非営利活動法人日本メディカルハーブ協会会報誌『 MEDICAL HERB』第72号 2025年6月





