2021.8.5

中世ヨーロッパとメディカルハーブ

東京大学名誉教授 東京大学総合研究博物館特招研究員

大場秀章

中世とその動向

西ローマ帝国が滅亡した476年から東ローマ帝国の滅亡に至る1453年までを中世と呼ぶ。ルネサンス期の人文主義者は、中世を彼らが文明の理想とする古代ギリシア・ローマが消滅するに至った暗黒時代ととらえた。この中世のメディカルハーブの受容状況と変貌は本連載でも多少取り上げたが、さらに検討を加えてみよう。

中世を出来しゅったいさせた原動力は、モンゴル系のフン族の拡張とヨーロッパへの移住を背因とするゲルマン民族の大移動であった。特に378年のアドリアノーブル(現在のトルコ最西端の都市、エディルネ)の戦いでのローマ軍敗北以後は民族移動は止め難く、異民族による略奪はローマにまで及んだ。そのおよそ百年後の476年にローマ軍のゲルマン人傭兵隊長オドアケルは、西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、その帝冠を東ローマ帝国の皇帝に贈ってしまった。これにより地中海地域西部に築かれた大帝国、西ローマ帝国は帝冠を失い、消滅を余儀なくされたのだった。

その後、西ローマ帝国の中心であったイタリアは、東ローマ帝国やゲルマニアの諸民族、アラブ人などの侵略を受け、王国や侯国、都市国家などが乱立する事態となった。しかし、混乱は次第に収束に向かい国土は再び統一され、カロリンガ朝フランク王国の王、シャルルマーニュは、800年に復興なった西ローマ帝国の皇帝に就き、カール大帝と呼ばれた。

一方、旧ローマ帝国領でのキリスト教化がほぼ成し遂げられ、ローマ教皇の権力は拡大し、東ローマでは皇帝権力と拮抗するに至った。旧ローマ帝国領でのキリスト教強化は中世を特徴づけるひとつである。すべてが教理に適合することが求められ、後のガリレオ裁判のように、反教義的主張は断罪された。

キリスト教が台頭する以前の時代であるギリシア時代の思想は、キリスト教の教義とは無関係に成立した。ギリシア時代は多数の神の存在を容認しており、一神教のキリスト教とは相容れない。キリスト教化が進む中で、特にギリシアを含む東ローマ帝国領からギリシア思想や文化を担う哲学者らの学識者がアラビア語圏である東方へ逃れ、研究・教育に従事した。この当時のアラビア語圏の高い知的水準に比して、ローマ帝国内では聖職者でさえギリシア語文献が読める人はごく少数であったという。この間に多数のギリシア語文献がアラビア語に、ときには校訂付きで翻訳され、ヨーロッパでは後のルネサンス期にプラトンやアリストテレスの哲学書をはじめ、多数のギリシア語著作のラテン語訳がアラビア語訳からの重訳として成し遂げられていった。

ディオスクリデス『薬物誌』とその特徴

紀元1世紀の人、ディオスクリデスはギリシア語圏で医療を行い、『薬物誌』もギリシア語で書いた。『薬物誌』は、他の本草書にないいくつもの特色を有していた。そのうちでも特に重要なことは、自らが薬草を手に取り、吟味し、類似種との異同を確かめて後、処方した経験によってこれを書いていることである。この自らの経験に基づく著作という点で、同じように多数の自然物を扱ってはいるが、それを伝聞によって著述している同時代のプリニウスとは大きく異なっている。『薬物誌』は経験に基づく著作であるがゆえに、後代においても検証可能な要素も多く、実際18世紀にはフランス、デンマークはオスマン・トルコの帰属下にあったレヴァントに探検隊を派遣し、また1784年にはオックスフォード大学の若き教授であったシーブソープが植物画家フェルディナンド・バウアーを伴い、東地中海地域を探検し、ディオスクリデスが『薬物誌』に載せた植物の同定を視野に入れた分類学的な研究を行っている。

このような研究が意義をもつのも、ディオスクリデスの『薬物誌』の実証可能性に負うといってよい。ちなみにギリシア時代といえば陸続する哲学的著作から経験よりも思索が重んじられた時代との印象を受けるが、ディオスクリデスの著作はそうした範疇外にあり、それだけに重いものがある。

中世前期の『薬物誌』受容と変容

中世は一般には、前期(476年~10世紀)、中期(11~13世紀)、後期(14世紀~1453年)に区分される。それ以前、すなわち西ローマ帝国滅亡前の2世紀までに、ディオスクリデスの『薬物誌』はローマ世界に広く浸透していった。ローマ人に限らず、帝国内に広がった他国、他民族の人びとの間にもその受容者は増えていった。それが後に生じる『薬物誌』の変容や他書との折衷書、通俗化本を生む契機ともなった。

現存する地中海地域の薬物系稿本の多くは、改変を伴うもののディオスクリデスの『薬物誌』の筆耕本である。稿本が『薬物誌』の筆耕本かどうかを決める手懸りのひとつが、彼の著作には俗信や根拠のない伝聞がほとんど記されていないことである。邪淫のものを含め存在した多数の治療法の中で、薬物による医学的治療が受け入れられていったのも、ヒポクラテスやディオスクリデスの記述に表れている合理性と高い信憑性に負うところが大きい。この点も先にあげたプリニウスとディオスクリデスの違いである。プリニウスは臆面もなく至る箇所で俗信を披露するのだ。

ギリシア語読解者の激減は、当然『薬物誌』を読める医者は皆無に近い状況であったことを予想させる。さらに問題なのは、たとえ読めても包括的かつ広範なそのテキストの内容を理解できる人もこれまた少なかったと考えられることだ。少なくとも中世前期には、ディオスクリデスの『薬物誌』が手元になくとも、実際の治療に支障がなかったからであろう。事実、『薬物誌』以外にも医者が参考にし得る同時代の医学書(leechbook)は多数あった。それらの著者として、皇帝ネロの侍医クレタのアンドロマコス、同じく皇帝ティベリウスの侍医メネクラテス、医師のパンフィロスやセルウィリウスらがいる。メネクラテスとアンドロマコスは特効薬を調合し、パンフィロスは最初のアルファベット順薬物書を著した。

ディオスクリデスは薬草を1種類のみで供与する単味剤として用いたが、当時から複数の薬物を用いる調合も行われていた。有名なものにクラテウアスが侍医を務めた紀元前1世紀のポントスの王、ミトリダテス6世エウパトル(紀元前111〜64年)に38種類の薬草を用いた解毒・耐毒剤がある。アンドロマコスは45種類を合わせた調整剤(theriaca)を創出している。そうした中で2世紀の大折衷家とされるガレノスは、ディオスクリデスの『薬物誌』に基礎を置いて、単味剤の効用を述べた『デ・シンムリキブス』(De simplicibus)と呼ばれる著作をあらわしている。
『薬物誌』に搭載された薬物をアルファベット順に配列し、利便性を高めた『ディオスクリデス・アルファベティクス』(Dioscurides alphabeticus)もこの時代に登場した。

東京大学名誉教授 東京大学総合研究博物館特招研究員
大場秀章 おおばひであき
1943年東京生まれ。東京大学総合研究博物館教授。現在は東京大学名誉教授、同大学総合研究博物館特招研究員。専門は植物分類学、植物文化史。主な著書に『バラの誕生─技術文化の高貴なる結合─』(中央公論社、1997年)、『サラダ野菜の自然史』(新潮社、2004年)、『大場秀章著作選集Ⅰ,Ⅱ』(八坂書房、2006・07年)など。

初出:特定非営利活動法人日本メディカルハーブ協会会報誌『 MEDICAL HERB』第31号:2015年3月